『バンベルクの黙示録』

 かねてから、写本のファクシミリ、特にオットー朝時代のもの、を入手したいと思っていたがこの時代の写本は『『エヒテルナッハの黄金福音書』『ハインリヒ2世の典礼用福音書抄本』などのように純度の高い金箔をふんだんに使用したためたいへん豪華であり、その価格もその豪華さに比例して高価なのでなかなかその機会がなかった。最近になってオットー朝写本でまだファクシミリになっていなかった『バンベルクの黙示録』がファクシミリ化され、比較的入手しやすい価格であったこともあり、迷わず購入することにした。ファクシミリを制作したのは『ベリー公のいとも豪華な時祷書』、『ケルズの書』あるいは『リンディスファーンの福音書』などを手掛けたルツェルン・ファクシミリ・フェアラーク(旧スイス・ファクシミリ・フェアラーク)、世界最高の復刻技術を持つことで知られる出版社である。入手したファクシミリのEdition No.は580/980、ファクシミリ本体と研究報告の二冊構成でアクリルのケースに入っていた。

『ヨハネの黙示録』
 紀元二〜三世紀頃に成立したと思われるキリスト教(厳密にはローマ・カトリック)唯一の預言書。著者はヨハネと名乗るが一般に使徒ヨハネと同一視された。ギリシア正教では文法的にあやしいギリシア語で記述されていることなど当初から疑問視され、プロテスタントでは曖昧な幻視は聖典として認められないという理由で正典に入れられていない(しかしルター訳聖書では黙示録の人気のためにページ番号をつけない形で収録された)。現存最古の写本テキストは四世紀前半の『シナイ写本』、挿画が入ったものでは『ヴァレンシエンヌの黙示録』。バンベルク本をはじめとする中世の写本はヒエロニムスの訳したウルガタ本が底本となっている。幻視的内容ゆえに芸術家の想像力をかきたてる素材が多く、1500年の間に多くの傑作が生まれた。

『黙示録』挿画本
 黙示録の図像は壁画やモザイクとしてまず現れた。その中でも失われた旧サン・ピエトロ大聖堂ファサードのモザイクは『栄光の王と二十四人の長老』が描かれていたと言われ黙示録図像の発展・普及に重要な役割を果たした。写本に連作として現れるのは9世紀頃、カロリング時代に制作された『トリーアの黙示録』や『ヴァランシエンヌの黙示録』など。同時期の壁画(例えばミュスタイルの聖ヨハネ修道院聖堂内陣)にも登場するようになる。次いでピレネーの南から一連の『リエバナのベアトゥスによる黙示録注解』の挿画本(通称ベアトゥス本、従って黙示録本文の挿画ではない)が登場した。彫刻の分野では柱頭などに表現されていたのが11世紀になって大規模な図像プログラムとして内陣やタンパンに彫刻されるようになる。その後現代に至るまで次々と黙示録の傑作(この中で好きなのはベアトゥス本、デューラーの木版画による『絵入り黙示録』、ルドンの『聖ヨハネの黙示録』、挿画ではないがメムリンクの『聖ヨハネの幻視』など)が制作された。

『バンベルクの黙示録』
 これら一連の挿画本の中でカロリング朝時代の黙示録に続いて登場したのが『バンベルクの黙示録』でオットー朝時代に制作された(現存)唯一の完全な黙示録写本である。制作を依頼したのはオットー3世でライヒェナウ島、ミッテルツェルのマリーエン修道院でテキストと挿画が制作された。オットーII世は二年後に没し黙示録写本制作は長期に中断してしまうが、次の皇帝ハインリヒII世が改めて完成するよう依頼し、遅くとも1020年には完成(実際の完成年は謎)したと考えられる。当時ライヒェナウのザンクト・マリア修道院は写本制作の中心地の一つで、『アーヘンの福音書』、『オットーIII世の福音書』、『ハインリヒII世の典礼用福音書抄本』など前後してオットー朝写本の傑作が制作されている。これらの福音書にみられるオットー朝写本の特徴の一つは典礼で誇示するよう豪華に仕上げていることであるが、『バンベルクの黙示録』は同じく豪華に仕上げられていてもその意味付けが違うようにみえる。まず、福音書写本の挿画は全ページに対する比率からいくと意外と低いのに対し『バンベルクの黙示録』ではその比率が高く、見開きに一つの割合で挿画がある。次に福音書写本は通常読むためよりも暗く広い教会で遠くからでもわかるように大型の判型であるが、『バンベルクの黙示録』はA4サイズの大きさで通常読むことを想定していると思われる。また、テキストも『エヒテルナッハの黄金福音書』のような全文字金箔であったのと異なり、通常の黒インクで記述されている。これらのことから皇帝(しかも二人の皇帝)がプライヴェートに読むための写本として制作されたのかもしれない。
 ハインリヒII世はもともと聖職者であったがオットー3世の急死により最近縁者(→リウドルフ系図)としてドイツ王、次いでドイツ皇帝を継いだという事情があり、実際のところ信仰生活を送りたかったようである(後にバンベルク司教区設立の功績により后妃クニグンデと共に列聖)。そのためもあってか、完成した写本は他の写本や宝物と共にハインリヒ2世自身が設立したバンベルク司教区の司教座聖堂に「奉献」された。この時には他の皇帝のために製作されたオットー朝写本と同様たいへん豪華な装幀がされていたが、現在は失われてバンベルク州立図書館が所蔵している10世紀ビザンティン写本の布地をコピーして布装になっている。実際の保管はバンベルクのザンクト・シュテファン修道院が行い、同修道院が1803年に世俗化した時に州立図書館に移管され現在に至っている。
 『バンベルクの黙示録』の挿画はライヒェナウ派(画僧リウタールのグループとされる)の特徴をのこしながらも全体として簡潔な表現をとっている。ロマネスク時代の絵画や金工芸作品の材料や制作法について記した『さまざまの技法について』の著者テオフィルスはライヒェナウの修道士であったと推測され、第一巻の顔料に関する記述を読みながら挿画の制作を想像するのも面白い。サン・サヴァン修道院聖堂ナルテクスの黙示録図像(修道院を訪れた時は修復のため見ることができなかった)と同じ系統とみられている。

 つい先日(2002年)、印刷博物館で開催された「ヴァチカン教皇庁図書館展」に同図書館所蔵のライヒェナウ派写本(Barb.Lat.711、1000年頃)が展示された。この写本は『オットーIII世の福音書』に共通した預言者像が描かれているが、この写本や『バンベルクの黙示録』の豪華さには及ばず、これら「黄金写本」が特別仕立ての書物であったことがよく理解できた。



写本外装

写本装幀 琥珀、レジデンツ宮廷礼拝堂宝物館、ミュンヘン
 オリジナルの装幀は金板や8個の琥珀を含む45の宝石で飾られた豪華なものであったが失われている。中央の琥珀は現存し、ミュンヘンのレジデンツ宮廷礼拝堂宝物館に所蔵されている。現在の装幀はバンベルク図書館にある写本に用いられた10世紀頃のビザンティンの布地をコピーしたもの。
 宝物館の初期中世展示室に何の解説もなく展示されていて、この大きな琥珀がもともとは黙示録装幀に用いられた宝石の一つであること知っていなければ、なんで王冠や金細工の展示のなかに一つだけ異色の展示品があるか理解できなかったであろう。

fol. 1r、書物を受け取る聖ヨハネ fol. 1v, 2r、黙示録本文冒頭
 黙示録はヒエロニムス校訂のウルガタのテキスト「これは、イエス・キリストの黙示録である」を大きな飾り文字「A」で始めている。この写本には全部で103のこうした飾り文字がある。本文は三人の筆写生が担当したと考えられ、美しいカロリング体で大きくゆったりと書かれている。普通の写本であれば貴重な羊皮紙を最大限利用するため細かな字で紙面にびっしりと記述されるのが普通である。長い年月の間にあいた羊皮紙の穴も正確に再現された。ちなみに「黙示」Apocalypsisという単語があるのはこの冒頭だけである。


テキスト部分


飾り文字Aの拡大

fol. 45v, 46r, 石臼を海に投げ込む天使 fol. 51v, 52r、『最後の審判』
 黙示録18−21章に対応する挿画。「すると、一人の力強い天使が、大きな引き臼のような石を持ち上げて、次のようなことを言いながら海の中に投げ込んだ。『大いなる都バビロンは、このように荒々しく投げ倒され、もはや決して見出されることはないだろう』」
 黙示録20−11から始まる「最後の審判」。中央上に審判者、大きな十字架については本文に記載はない。初期キリスト教時代には十字架が描かれることはなかった。その下の天使は「命の書」を掲げている。下中央に墓からの復活者たち、「命の書」にリストアップされていれば左側の天国へ、なければ右側の地獄へと分かれていく。地獄に連れ去られる人の中に司教や皇帝の姿も見える。この場面に対し13世紀にシトー会修道士により作られたセクエンティア『怒りの日』は後に『レクィエム』として多くの作曲家により作曲された。500年の後、システィーナ礼拝堂の壁面に描かれた『最後の審判』もほぼ同じ構図である。


fol. 32vの挿画

 黙示録13−1、第一の獣登場の場面、「その獣は十本の角と七つの頭を持っており」。頭の一つは死にかけていることになっていて、くたっとなっている表情がいい。「姿は豹に似ていたが、その足は熊の足のようで、その口はライオンの口のようであった」というテキストに忠実に描かれているが画師はおそらく本物の豹を見たことはなかったかもしれない。右下は海でその上に一部始終を幻視するヨハネが描かれる。


fol. 59v, 60r, 玉座の皇帝と供物を捧げる属州

 『黙示録』写本の内容は前半が『黙示録』全文、後半はほぼ同じ分量の朗読用福音書抄本の二部構成をとる。後半の冒頭見開きにこの挿画がおかれている。描かれている皇帝が若いこと、后妃が描かれていない(ハインリヒ二世であればクニグンデ后妃が共に描かれる。写本を奉献したのは「二人」によるから)ことからオットー三世と思われる。『オットー三世の黄金福音書』では廷臣に囲まれた皇帝として描かれているがここではペテロとパウロから戴冠を受ける構図である。輝く金地は皇帝の書にふさわしいように金箔を貼り付けた後、入念に磨かれた結果である。カロリング時代にはこのような背景はなかったのでビザンティン写本の影響と思われる。


ファクシミリについて
 この写本はオットーV世の依頼からちょうど千年後、2000年にファクシミリが制作された(詳細は「データ」に記載)。ファクシミリはいわゆる復刻本のことで19世紀後半から制作されるようになった。特に1970年代から技術の進歩にあわせて盛んになり、多くの写本がファクシミリ化されてきた。徹底したオリジナルの再現を目指し最先端の技術が投入されているが最終的には熟練職人による手作業で仕上げられている。こうしたファクシミリ本は美術作品として扱われ、先日開催されたヴァチカン図書館展(印刷博物館)でも写本とならんでファクシミリ本が展示されていた。


通常の印刷とファクシミリの印刷の違い

 上は普通の印刷(左、写真原稿はファクシミリと共通で同寸)とファクシミリから800 dpiで取り込んだもの。通常のカラー印刷は四色のインクCMYKを用い、400 dpi程度の解像度で網目分解した原版を重ねてカラー再現するが、このファクシミリでは数十色のインクを用いたオフセット印刷により印刷されている(2001年に同じ出版社が制作した『リンディスファーンの福音書』ファクシミリでは45色使用し顔料もリンディスファーンに自生する植物や中近東のラピス・ラズリを使用している。通常印刷の中でも高度なポスターや複製版画などに使われる多色刷りシルクスクリーンでは多くても15〜20色)。
 この写本の特徴である金地の部分はオリジナルの成分分析(EDAXなどを使えば非破壊で元素分析が可能)を行って同成分の金合金を作製しオリジナルに近づけている。紙も羊皮紙に近い厚みと色あいを持たせ、欠損部や後年の書き込みなども全て再現されている。装丁は古写本で使われた技術で行われている。こうした技術により普通の印刷では得られないクォリティが実現した。


書誌データ
Die Bamberger Apocalypse
Staatsbibliothek Bamberg, Ms. Bibl. 140
来歴: 1000年にオットー3世よりライヒェナウ島帝国修道院、マリーエン修道院に対して黙示録写本の制作を命じられ、早速取りかかった。しかし2年後、皇帝の突然の死により長期中断された。その後ハインリヒ2世により再度依頼があり1020年までに完成、この年にバンベルク大聖堂に他の写本と共に(皇帝と后妃により)奉献、1803年まで同地のザンクト・シュテファン修道院に所蔵。同修道院が世俗化された時にバンベルク図書館へ移管され現在に至る。ファクシミリは20世紀初めに部分ファクシミリが、2000年に全体のファクシミリが制作された。
ファクシミリ: Faksimile-verlag Luzern, Luzern, 2000., ISBN:3-85672-076-6
Image sources:
Gude Suckale-Redlefsen, Die Bamberger Apocalypse, Faksimile-verlag Luzern, Luzern, 2000. ISBN:3-85672-076-6
Ingo F. Walther, Codices illustres, Taschen, 2001. ISBN:3-8228-5852-8

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