私はたちまち霊に満たされた。するとそこ、天に玉座が据えられていて、その玉座に座っている者がいた。 |
座っている者の相貌は、碧玉と紅玉髄のようであった。そして、その玉座のまわりを、エメラルド色した虹が取り巻いていた。 |
また、玉座のまわりには二十四の王座があって、その王座には白い着物を身にまとい、頭には金の冠を被った二十四人の長老たちが座っていた |
第一の生き物はライオンに似ており、第二の生き物は若い雄牛に似ており、第三の生き物は人間のような顔を持っており、そして第四の生き物は飛んでいる鷲に似ていた。 |
それら四匹の生き物は、それらの各々が六つの翼を持っており、まわりじゅう、しかも内側まで、目で覆われている… |
ヨハネの黙示録4−2〜8 新約聖書翻訳委員会訳、岩波書店 |
トゥルーズ、サン・セルナン教会内陣浮彫(11世紀末)
エミール・マールを初めとしてこのラングドック派最初の浮彫を「栄光の王」の出発点にしているが、カロリング時代に既に類似した図像が描かれていた。モワサックと比べて「荒ぶる神」の印象が強い。
モワサック、サン・ピエール旧修道院南扉口タンパン(1120〜1135頃)
「栄光の王」(黙示録4:1〜11)のこれまで見た同一テーマの作品はポアチエのノートル・ダム・ラ・グランド教会とシャルトルのノートル・ダム大聖堂のファサードにある彫刻、ピレネーのサン・ジュスト旧大聖堂北扉口のタンパンなどである。ポアチエの作例は1150年頃に製作された立体的な丸彫である。「栄光の王」と似ているが黙示録の「見よ、その方が雲にのって現れる」(黙示録1:7)を図像化したものでベアトゥスの『黙示録注解』サン・スヴェール写本でも同一場面が描かれている。
純白の石灰岩を使った彫刻で頭部を欠損しているがモワサックのような厳格さは感じられない。彫刻の作風も違いポアチエの方は古典的な感じがする。マンドルラは60cmの深さがあり丸彫りに近い。衣絞の表現も緩やかである。周りの四つの生き物もそれぞれ十分なスペースを与えられている。
モワサックで始まった(タンパンでなければサン・セルナン内陣の浮彫が先行する)このテーマのロマネスク時代での最終到達点はシャルトルで製作されたタンパン彫刻である。西正面中央のタンパンで、彫刻はいちだんと洗練されてきた。長老たちはヴシュールに退いたため、四つの生き物の間は幾分間のびした感じになっている。
シャルトル、ノートル・ダム・大聖堂西正面、「王の扉口」(1155〜1160)
「栄光の王」はシャルトルにおいては表情が優しく肩がなだらかになって女性的にさえ見え、審判者としての厳しさが失われる代わりに救済者のように思える。実際、南の扉口は「ディシス」(とりなし)の彫刻であるので制作者の意図するところでもある。シャルトル大聖堂の彫刻はシャルトル学派の思想が強く反映されているように思える。こうしてみると、モワサックのタンパンは極度に凝縮されたことにより終末に至る緊迫感が強く感じられる。同様にエミール・マールが主張したサン・スヴェール写本と比較してもずっと彫刻の方が力強い表現である。
素直な印象ではサン・スヴェール本よりも細部には違いがあるが次のオットー朝黙示録写本『バンベルク黙示録』の「栄光の王」のほうがモワサックの彫刻に似ていると思う。
参考までに他のオットー朝写本から「栄光の王」の挿画を示す。10世紀前半にエヒテルナッハ修道院(現在のルクセンブルク、トリーアに近い)で製作された挿画の一葉で四福音書記者の象徴と旧約聖書の預言者をシンメトリカルに配置している。サン・スヴェール写本と比べるとずっと静的な表現となっている。
シント・セルファース教会北扉口
ドイツに入ると「栄光の王」のタンパン彫刻への関心がいっきょに低くなっているようにみえる。スラヴとの国境に近いザクセンの辺境地まで「栄光の王」が広まっていたことがわかる。
ヴァルカブレール、サン・ジュスト旧大聖堂北扉口(1200頃)
「栄光の王」のタンパン彫刻中、最も特異な作例。福音書記者が人間として表現され(腕に抱えているものでアトリビュートできる)、モワサックのタンパン彫刻とうって変わったような人物表現。「栄光の王」も含めて人が良さそうで多少の罪なら大目にみてくれそうな感じである。この聖堂と近くにあるサン・ベルトラン・ド・コマンジュのノートル・ダム大聖堂廻廊の彫刻はローマ的な面影が残っている。
Abadia del Moissac Visio Iohannis |