Villers-la-Ville, Brabant Wallon, Belgium.


Abtij van de H. Maria van Villers-in-Brabant
シトー会修道院(廃墟)

 日本では殆ど知られていないシトー会修道院の壮大な廃墟。クレヴォーのベルナルドゥス(ベルナール)により直接設立された修道院である。有名なロマネスク聖堂のあるニーヴェルから車で15分ほど東へ行ったところに旧シトー会修道院のヴィラースラヴィル(と現地の人は発音していた)がある。典型的なベルギーの田舎のベルナルドゥス好みの風景の中に位置する。ベルギーではルクセンブルク国境に近いオルヴァル Orval にもシトー会でも最大の規模であった修道院の廃墟やビールで有名なシメィなどがある。現在は敷地全体が史跡公園となり、聖堂でコンサートが開催されたりしているのはハイスターバッハの廃墟と同様だった。


修道院裏手の高台から、かつての所領


食堂(1230−1250)
 廃墟のなかで最も古い遺構から。修道院は1147年にクレルヴォー修道院の娘修道院として設立され、現在のこる遺構は12世紀から18世紀に及ぶ。廃墟ではあってもシトー会修道院のイメージがよくのこされ、その中でも食堂は最もシトー会建築の特徴が現れている。ブリュージュ近郊の同じくシトー会に所属したテル・ドエストの納屋(この修道院も廃墟)によく類似している。


修道院聖堂(1210 − 1240)

主身廊
 シトー会建築というと、ル・トロネのようなトンネルヴォールトでシンプルな壁面構成のイメージが強い。しかし過剰なくらいの経済力を背景に、ベルナルドゥス没後次第に都市のゴシック建築の影響が入り始め、13世紀になると華麗な壁面構成となっていった。ヴィラースラヴィルの聖堂も、アーチ、トリフォリウム、クリアストーリーの3層構成となり、6分ヴォールトの天井を載せている。柱頭彫刻が一切ないところがシトー会らしい。


左から、南側廊、交差部、アプシス

 修道生活の中心である聖堂はロマネスクからゴシックへの過渡期に建てられた。廃墟ではあっても元の状態が何となく想像出来る。ハイスターバッハ(1207−1237)のように豊かな細部でアプシス上部のリブなども彩色されていたようである。 建築年代がほぼ同時期で、しかも同じ修道会なのに共通点よりも差のほうが大きいように思える。

聖堂プラン
破壊前の聖堂の状態(wikipedia)
 17世紀の版画に描かれた聖堂をみると、ファサードに高さを抑えているものの双塔がはっきりみえる。シトー会では交差部に塔を設ける(ル・トロネ、フォンフロワドなど)ことはあっても、司教座教会のような双塔があるのは異例であった。双塔はフランク王領を中心に発展し、格式のある教会堂にしか建設は許可されなかった。聖堂西正面の入口部分は1197−1209年で、ロマネスクの要素が強い。

 左からアプシス、北トランセプト。軒下部分のレリーフが印象的。細い半円柱も装飾的な感じが強い。シトー会といえば清貧・質素を旨とし、ベルナルドゥスによるクリュニー会の豪華な聖堂や聖像、装飾への批判は有名であるが、建築に関する限り細部にかなり凝っていてたいへん贅沢といえる。


身廊のフライングバットレスはごく短いが二重に壁を支える


修道院付属建築の廃墟


 ハイスターバッハ修道院の修練士長だったカエサリウス(?−1240)が記した『奇跡についての対話』の中に、ヴィラース・ラ・ヴィル修道院にまつわる幽霊譚が伝えられている。かつてこの修道院にいた一人の修道士が亡くなり、しばらくして修道院長の面前に出現した修道士の幽霊は、怠惰な修道院生活を送ったため自分が受けている罰について語ったという。
 廃墟となって、日が沈んだら幽霊が出てもおかしくない雰囲気になるかもしれない。



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