Abti Cister-Cienser (Rhuine), Heisterbach, Bonn.

修道院聖堂遺構


残存部分はアプシスのみ


聖堂プラン。黒色が現存部分。
ザイプト著、永野藤夫他訳、『図説中世の光と影』、上巻p.215

 ボンからライン川を少し遡り右岸を3キロ山の中へ入るとハイスターバッハの女子修道院がある。シトー会のクレルヴォーの娘修道院として設立された修道院である。最寄り駅から歩くには時間が足りなそうなので(約3キロ、この日はシュヴァルツラインドルフに寄ってボンへ行き、アンデルナッハ経由でマリア・ラーハへ行く予定であった)、最もタクシーを拾える可能性の高いケーニヒスヴィンターでタクシーに乗りハイスターバッハへ直行した。
 修道院の門をくぐったのはちょうど正午、カリヨンの音が出迎えた。賑やかなフランドルのカリヨンと違い至って簡素である。目指す遺跡は左側の敷地にひっそりと建ち、すぐ見つけることが出来た。
 人のための安息の場所があるのなら、建築のための安息の場所もあるのではないか、と考えてしまう。周囲はきれいに整備され時々コンサート会場にもなるそうである。少しピンクがかった石は青空にも映える。
 ラインラント建築らしくない部分が散見し、それらはシトー会がフランスからもたらしたものである。末期ロマネスクでありながらゴシック的な部分などはその例である。その一方でシトー会らしくないところもある。ほぼ同時期の建築、ヴィラース・ラ・ヴィルと比較してみると興味深い。13世紀に入ると厳格・清貧で知られたシトー会も贅沢になりアプシス内側を細い柱で2重にし更に周歩廊が至聖所を取り囲むように廻らし凝ったつくりである。左はアプシス外側の盲アーチでドイツロマネスクの影響が強くみられる部分。アプシス頂部は尖頭型。聖堂は1803年の修道院廃止後取り壊されてしまった。

 聖堂が建設中だった頃修道士として在籍したのがプリュム修道院長のカエサリウスであった。カエサリウスがハイスターバッハで筆写したプリュム修道院所領明細帳は中世経済を知る上での第一級史料とされている(森本芳樹、『中世農民の世界』、岩波書店、2002年)。
 もう一人、同名の修練長を勤めていたカエサリウス(Caesarius von Heisterbach, 1180?-1240)が在籍し、亡霊譚を修練士のために書き綴っていた。この『奇跡に関する対話』は1219年から1223年にかけて執筆され、最後の巻が「死者たちの受ける報いについて」と題し、ハイスターバッハ近郊やシトー会関連地でおこった31の亡霊譚が収録されている。この中にはヴィラース・ラ・ヴィル修道院で出現した修道士の幽霊の話も伝えられ、前記カエサリウス修道院長から取材した奇跡の話も収録している。幽霊の存在はアウグスティヌスにより否定されていたけれども、キリスト教世界ばかりでなく世界中に伝わる一種の普遍性を持った幽霊伝説を無視することが出来ず、逆にそれらを取り込み教訓化されていったのがこの時代に始まった。『奇跡に関する対話』はライプニッツが最初の校訂本を出し、ヘッセがラテン語からドイツ語に訳出して出版したりしている。


アプシス外側、三角形のバットレス


Deutschromanik        
inserted by FC2 system