ブリュッセルからほんの30分、途中ワーテルローの古戦場を通り過ぎ、フランドルの平原からワロン地方の起伏のある景色に変わる頃ニーヴェルに到着する。駅は丘の上、町の中心はずっと下の方に位置し、目指す聖堂まで下りて行かなければならない。駅に着く少し前から聖堂の塔が既に見え、家並みの上に現れた大きな壁のような特徴のある西側部分がゴヤの巨人のようにも見えた。 この聖堂の成立は古くメロヴィング時代に遡る。当時の状態は発掘調査によってある程度わかっていて、最初は女子修道院の聖堂であったのが次第に拡張され、12世紀にひとまず完成した。ヴェストヴェルクが建てられた頃の修道院長は宮中伯エッツォの一族であった。ヴェストヴェルクを除く部分は建築史上、ヒルデスハイムのザンクト・ミヒャエル聖堂(こちらは世界遺産に登録されている)の対立作品と位置付けられている重要な作例である。聖堂の特徴ある西正面は、マリア・ラーハの西正面との類似が指摘されている。この部分は大戦中の荒廃と戦後の火災により再建を余儀なくされ、17世紀に改変された部分を推定を加えて当初の形に戻したものである。17世紀の改変ではアプシスが撤去されてしまったのと中央の塔が大きく変えられてしまった。 |
聖堂内部
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西内陣方向
左:アプシス、右:身廊(西側から)
平天井は第二次大戦中に完全に失われてしまったので戦後のS・ブリゴドによる修復時に鉄筋コンクリート製で表面を「木目調」仕上げにされた。身廊中央にみえる架橋されたアーチによって区切られたため内部の矩形が強調される恰好となった。この横断アーチもこの時追加されたもので、それ以前には確実になかった。クーバッハはこの聖堂の特徴的な立方体空間を強調するものとして高く評価している1)。身廊両脇は円柱ではなくてピアであり、このためピア式バシリカと呼ばれる。カロリング朝の影響を受けた作例としては最大規模で、身廊と内陣部分は現存するオットー朝建築の一つである。
Romane Belguique |