マリアをあがめる博士(最も高い、最もきよらかな岩窟で) ここでは展望をさえぎるものはなく、 精神はもっとも高められる。 あすこを女人たちが過ぎてゆく、 ただよいながら上に昇ってゆくのだ。 その中心にいまして、星の冠をおつけになった 崇高なお方、 あれが天の女王だ。輝く光でそれがわかる。 (歓喜に酔って) ああ、世界を支配したまう最高の女王! 『ファウスト』第二部 11988〜119981) |
Hermann von Altshausen (18. Juli. MXIII - 24. Sep. MLIV), oder Hermann der Lahme(不具のヘルマン)とも呼ばれる。1013年ライヒェナウの北にあるアルツハウゼン Altshausen でアルツハウゼン伯ヴォルフェラートとヒルトルートの間に生まれる。幼時より体が不自由(Glasknochenkrankheit - くる病と推測されている。同じ病気を患ったのが19世紀の画家トゥルーズ=ロートレック)であった。1020年(7歳)のときライヒェナウのザンクト・マリア・ウント・マルクス修道院付属学校に入り、修道院長ベルノの弟子となった。ちょうど写本工房でリーウタルが代表作となる Pelikopenbuchや、依頼者の崩御で長い中断ののち、新たな依頼者の命で制作が再開されていた Die Bamberger Apokalypseの挿画を描いていたときであった。体の極端な不自由さと引き替えるかのように優れた頭脳を持ち、多くの著述を遺した。「中世のホーキング」とも言えるヘルマヌスの今日知られている業績として、アストロラーベに関する著述 "Experientia Astrolabii"、音楽理論 "De Musica" 、グレゴリオ聖歌 "Salve Regina mater misericordiae", "Alma redemtoris mater" などの(少なくとも)作詞、など多岐に及ぶ。後に列福され、ザンクト・ガレンをはじめとする聖堂の壁画や天井画に肖像が描かれるようになる。このときアトリビュートとして描かれるのが、"Salve Regina"と書かれた書物(または巻物)、アストロラーベ、杖である。 |
Hermannus Contractus und Sein Schüler Berthold, Stiftsbibliothek Sankt Gallen |
アストロラーベ、天文学、幾何学と技術 |
フェルメールの『天文学者』(ルーヴル美術館)には、天体観測に用いる様々な器械が描き込まれている。このうち、テーブル上の天球儀の手前、布に少し隠れてアストロラーベを置いてあるのがわかる。『天文学者』が描かれた1670年代でも、アストロラーベは天体観測のために不可欠であり、天文学者のステイタス・シンボルでもあったがその起源は古い。 |
Vermeer, Astronmist, 1674. |
アストロラーベは古代ヘレニズム世界で既に知られ、星の位置を計測することでホロスコープに用いていた。イスラム世界に継承され、主にメッカの位置を割り出すために使用され、豪華で精密なアストロラーベが製作されていた。960年にアンダルシアのイスラム圏にもたらされた2)。 10世紀中葉にリポイ修道院では、アラビアの天文・数学者マーシャアッラーのアストロラーベに関する著作(『アストロラーベの構成について』、『アストロラーベの使用について』)がラテン語に翻訳されていた3)。程なくピレネーを越えてオルレアン近郊のフルーリィ修道院長アッボが修道院に持ち帰った。また、967年以降、ビック司教アットンの許にいたオーリヤックのゲルベルトゥス4)がこの写本を読み(リポイはビックのすぐ近く)、このルートからヨーロッパに流布したという説もある。994年にフルーリィ修道院で学んでいたベルノの知るところとなり、1008年にライヒェナウ修道院長として着任したとき、使用マニュアルと共に携えてきた。ベルノはアストロラーベを使用した復活歴計算法について著述 "Computus Augiensis" を行っている。ベルノの最良の弟子であったヘルマヌスはそのとき20歳、アラビア語の著述を参考に暦の決定(特に問題となったのは降誕節を決定することであった)ばかりでなく、1050年に起こった日食の予測(このとき、同僚たちは「黙示録」に示された預言通りのことが起こった、と狼狽し大混乱に陥った。しかしヘルマヌスはアストロラーベの計測結果から何の心配もないことを説明して落ち着かせた)や建築の測量などに拡張応用した。アストロラーベは実用的な目的の他に、その円盤に天球の秩序を投影しているとヘルマヌスは考えていた。円盤上の天球投影図は後の『神曲』で描写された天堂構造にも反映されているかもしれない。 この頃、シュパイアー大聖堂の建設にも関わったオスナブリュック司教ベンノがライヒェナウの付属学校で学んでいた5)ので、最新の技術としてアストロラーベの使用法をヘルマヌスから伝授されたかもしれない。 |
Astrolabe, これは現代に製作されたもの |
音楽 |
音楽もヘルマヌスは熱心に研究していた分野である。師ベルノの『トナリウス』(教会旋法を集大成した聖歌集)やグイド・ダレッツォ(980?ー1033?)の『ミクロロゴス』(1020年頃)に少し遅れて、ヘルマヌスは音楽理論書 "De Musica"を著述した。この著作で中世の教会旋法は完成したと言われている。旋法はもともとギリシャで発達し、ボエティウスを経て中世に部分的に引き継がれていったが、古代ギリシャでは低音弦が上、高音弦が下に位置するキタラを用いていたので下降型音型となっていた。ヘルマヌスの著作で初めて今日見るような上昇型音型となり実際的な表記となった。ボエティウスとは別にヘルマヌスはアラビア音楽理論も参考にしていたらしい。「アラビア科学の崇拝者として、アル=キンディーの音楽理論の諸著作と取り組み、そこからアラビアの記譜法を受け継いだ」6)。 『音楽論』の最古の写本は現在ロチェスター大学にあり、ドビュッシーの『海』の自筆譜(2部作曲者により作成された)と共に所蔵されている。800年を経て教会旋法を完成させた『音楽論』と、旋法を多用した代表作品『海』が遠くアメリカで出会うところが現代らしい。 |
グレゴリオ聖歌の八旋法とテトラコードの説明 |
サルヴェ・レジーナ |
グレゴリオ聖歌の中でも美しい詩(ルターは聖母生誕日の説教で「この祈りは世界中で鐘を鳴らすように誰もが歌う」と述べた)で際立っているのが『サルヴェ・レジーナ』Salve Reginaである。オリジナルの旋律は伝わっていないが作曲もしていたと考えられる。現在は2通りの旋律で歌われている。そのうち一つは近世に作曲され、もう一つはシトー会で遅くとも12世紀に作曲されている。その他にも多くの作曲家がこの詩に作曲している。詩は訳文で読んでも作者の純粋で真摯な敬虔さが伝わってくる。 |
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めでたし元后、あわれみ深き御母、 我らの命、慰め、望みよ、めでたし。 さすらいの御、エヴァの子なる我らは汝に叫び、 泣き悲しみて、ひたすら汝を仰ぎ望まん、 この涙の谷にて。 ゆえに我らの代願者よ、 哀れみの御目を我らに向け給え。 また汝の胎にて祝されし御子イエスを このさすらいの果てに、我らに示し給え。 おお寛容、おお慈悲、 甘美の処女マリアよ7)。 |
Münster Zwiefalten von Meinrad von Au, 1764. 『ファウスト』最終場面のような光景 |
『ファウスト』最終場で、栄光の聖母に最も近くにいて聖母を讃える「マリアをあがめる博士」をゲーテは、"Salve Regina"、"Alma redemptoris mater"の詩人ヘルマヌスをモデルにしていたのではないかと思われる。ヘルマヌスは没後"Marienvereehrer"と呼ばれた。ファウストも当時の知識を究めた学者として戯曲中で登場し、様々な体験を経て「高みに引き上げられた」。その先達ともいえるヘルマヌスを『神秘の合唱』の直前に登場させたのかもしれない。 |
Hermannus Contractus関連のCD
タイトル | marie | |
演奏 | Choeur Gregorien de Paris Voix de Femmes | |
録音場所、年代 | Abbaye de Fontfroide, Avr. 1999. | |
CD No. | naive V4868 | |
フォンフロワドで収録されたこのアルバムの冒頭を飾るのがSalve Regina (BN Ms. lat. 1412)で、シトー会モリモンド修道院で12世紀に制作された写本の中にある。ソプラノの独唱で歌われるが特殊な残響音の効果により完全な一度の平行カノンを聴くことができる。 |
タイトル | Le Chant des Templiers | |
演奏 | Ensemble Organum | |
録音場所、年代 | Abbaye Royale de Fontevraud, Dec. 2005. | |
CD No. | naive AM9997 | |
シトー会が設立時に援助したテンプル騎士修道会の写本(Chantill, musee conde ms. XVIII b12, XIIe siecle)のSalve Reginaが最後に登場する。アンサンブル・オルガヌムは中近東的な響きで歌う(『ノートル・ダム・ミサ』の驚き!)。ギリシャやアラブの文化がライヒェナウ島で融合し里帰りした。 |
タイトル | Musik von der Klosterinsel Reichenau | |
演奏 | Münserschola Insel Reichenau | |
録音場所、年代 | Marienmünster, 1985-2002. | |
CD No. | Freiburger Musik Forum AM8014-2 | |
ライヒェナウ島が世界遺産登録されたのを記念して制作されたアルバムで、ザンクト・マリア・ウント・マルクス修道院の聖堂において演奏されたSalve Reginaを収録している。古楽ではない伝統的な表現。 |
タイトル | Gesänge der Ekstase | |
演奏 | Sequentia | |
録音場所、年代 | Sankt Pantaleon,16-21. Jun., 1993. | |
CD No. | BMG deutsche harmonia mundi 05472 77320 2 | |
ヒルデガルト・フォン・ビンゲン作品集の中に収録されているが、Benjamin Bagbyはヒルデガルト存命時よく歌われたアンティフォナとしてAlma redemtoris materを取り上げている。ケルンのザンクト・パンタレオン修道院聖堂、オットー2世妃テオファヌの墓前で演奏された。 |
Qwellen | |
1) | ゲーテ、手塚富雄訳、ファウスト、p.474、中央公論社、1974年 |
2) | Benz W., "Herman der Lahme. Graf von Altshausen", p.10, Kunstverlag Josef Fink, 2007. |
3) | 伊東俊太郎、十二世紀ルネサンス、p.166、講談社学術文庫、2006年 |
4) | 渡邊昌美、フランス中世史夜話、p.31、白水社、1993年 |
5) | 三宅理一、ドイツ建築史(上)、p.46、相模書房、1981年 |
6) | フンケ、高尾利数訳、アラビア文化の遺産、p.317、みすず書房、1982年 |
7) | 佐々木勉、那須輝彦訳、中世キリスト教の典礼と音楽、p.330(付録3)、教文館、2000年 |