Abte Berno (980? - 1048、修道院長在任 1008 - 1048) |
ライヒェナウ、ミッテルツェルの帝国修道院で帝国官房があったザンクト・マリア・ウント・マルクス修道院にドイツ王ハインリヒ2世の命で1008年、修道院長に任命されプリュムから移った。その後ハインリヒ2世の顧問として二度ローマに同行した(1014、1022年)。修道院二度目の全盛期をつくる。ベルノの時代に修道院聖堂が改築され(現存の建築)、スクリプトリウムでは美術史上最高峰の写本挿画が制作されていた。付属学校でも修道士の教育にあたり、弟子としてヘルマヌス・コントラクトゥスを育てた。ライヒェナウ着任以前、フルーリィのサン・ブノワ修道院でリポイから帰還したばかりの修道院長アッボのもとで学んでいた。アッボはリポイのサンタ・マリア修道院でアラビア由来の天文学や音楽を学び、ベルノに伝えた。アッボの前にはオーリヤックのゲルベルトゥス(後の教皇シルヴェステル2世)もビックに滞在し、アラビア天文学や数学を学んでいた。 |
ベルノが改築した修道院聖堂西内陣、祭壇手前に葬られている |
ベルノの墓碑 |
1924年に西側内陣床面が発掘調査された |
再発見されたベルノの亡骸 |
建築 |
ヴィティヴォーゴ院長時代に改築されたアトリウム付きの聖堂西側部分を1027年に全て撤去して西側躯体を新築、ベルノが亡くなった1048年に皇帝ハインリヒ3世が臨席して献堂された1)。 |
修道院聖堂西側正面 |
音楽 |
グイド・ダレッツォとは独立に研究された音楽理論についての著作が最も評価されている。フルーリィで音楽について学んだベルノはライヒェナウに移ってから、ボエティウスの音楽理論の影響下で当時の聖歌を集大成し旋法別に分類した『トナリウス』(Prologus in tonarium、De consona tonorum diversitate、De mensurando monochordo)を編纂し、後のヘルマヌス・コントラクトゥスの『音楽論』の基礎となった。これらの著作は理論と実践のバランスがとれていて、付属学校で教えた内容が反映されているという2)。 |
『トナリウス』写本、Bayerische Staatsbibliothek Kodex 27300、11〜12世紀の写本 |
Qwellen | |
1) | W. Erdmann, Die Reichenau, Die Blauen Bücher, 1993. |
2) | J. M. Jeep, Medieval Germany, Garland Publishing, 2001. |