ドイツライン河畔を中心とした地域をまわっていると、通常の典礼を行う以上の規模を持った西正面を持つ聖堂を多く見かける。それらは西側の躯体だけで独立した構成をとり、量塊感がありモニュメンタルな印象を共通して持っている。これらは戦後になって研究者により「西構え」 Westwerk (En: westwork)と呼ばれ、その起源や機能について議論されてきた。
 カロリング朝時代に北部の大規模なバシリカ式聖堂において、教会堂の西側に接してつくられた、ほぼ正方形平面で多層構成の西端部。一階には教会堂へ通じる玄関広間、二階には東側を大アーケードで身廊に開放し、そのほかの側をトリビューン付側廊で囲んだ大広間を置く。大広間の上には採光塔または鐘塔を建て、西正面入口の両側に階段塔を作り、大小三基の塔を並立させた雄大で変化に富む記念碑的な外観を呈する。10世紀以降、西構えの空間はしだいに解体して本体の教会堂に吸収されるが、西構えが提示した教会堂の入口としての記念性はその後も追求され、各種の形式の西正面が生み出された。

クーバッハ、飯田喜四郎訳、「ロマネスク建築」(本の友社、1996年、用語解説p267)

 建築は何らかの機能上の必然性があってその形態に反映させられる。これだけ独特な躯体が発達するからには何か必然性があったと当然推測される。ヴェストヴェルクの機能について同時代の記録がなく研究者の間で様々に議論されたが大方ドイツ皇帝権と関連させることで一致をみている。


ヴェストヴェルク、Sankt Pantaleon, Köln

 カール大帝の戴冠から始まった(神聖)ローマ皇帝は西ヨーロッパの広い地域を直接あるいは名目的に支配したが帝政ローマや東ローマ帝国のような中央集権的収税システムを確立していなかったため、皇帝自ら各地へ赴き収税や徴兵を行った。ドイツ王ハインリヒが対マジャール戦のため各地へ徴兵にまわり、アントヴェルペンでローエングリンと出会ったのもこうした事情からである。特定の首都を持たず「旅の王権」と呼ばれた神聖ローマ皇帝はハプスブルクがヴィーンを首都に定めるまで常に旅の中にあった。辺境地帯など皇帝権の浸透が弱い地域は服従を誓っているもののいつ反乱を起こすかわからない支配者も当然多く、カール大帝は地方巡幸の際、宮廷を開く場所として大修道院や司教座聖堂を選んだ。修道院長や司教は一代限りの権限であり多くは皇帝の意向により選出されていたから当時はむしろ公的な出先機関としての性格を持っていた。この傾向はオットー朝時代に入ると更に強くなりドイツの教会は「帝国教会」として皇帝権の中に含まれ(ローマ教皇でさえそうであった)、地方の貴族に代わり大修道院や司教座が大きな権限を与えられ事実上地方行政を司った。ヴェストヴェルクの発展はこうした事情が反映されていたと考えられている。

典型的なヴェストヴェルク


ザンクト・マリア・ウント・ザンクト・シュテファン司教座教会堂、シュパイアー

 ロマネスク建築史上最も壮大なヴェストヴェルクである。ザーリア朝の神聖ローマ皇帝が(教皇に対抗して)威信をかけて建てさせたのでたいへん強く記念碑的な性格が現れている。プファルツ継承戦争時の戦禍により完全に失われ現在建てられているものは19世紀の古図などをもとにした再建。ゲーテが訪れた時はノイマン(大建築家の甥)設計のとても変なヴェストヴェルクもどきが建てられていた。再建されたヴェストヴェルクは妙な部分もあるがだいたいこんな感じであったろうと往時を偲ばせる。三つある「皇帝大聖堂」のうちシュパイアーだけがヴェストヴェルクを持ち、他の二聖堂は二重内陣型プランを採用している。

ザンクト・パンタレオン教会、ケルン 旧司教座聖堂、ミュンスターアイフェル

 ケルン市内の南に位置するザンクト・パンタレオン教会はカロリング朝時代に創設され(当時は市壁の外)、オットー朝時代にオットー2世妃であったテオファヌによりヴェストヴェルクが建てられた。その後の長い歴史の中で改変されたが19世紀末にオットー朝時代の姿に戻され、第二次世界大戦の空爆後再建された。ボンから西に40キロにあるミュンスターアイフェルの旧大聖堂は12世紀に建てられた。お手本となったザンクト・パンタレオンよりずっと小規模である。


旧宮廷礼拝堂西正面
アーヘン

 カール大帝の宮廷礼拝堂(現在はゴシックの内陣が増設されて大聖堂になっている)はカロリング朝時代の数少ない現存例である。八角形の礼拝堂に接するこの西正面は「西構え」的な性格が既に現れているように見える。大きなアーチは凱旋門を意識したものと言われる。

ヴェストヴェルクの発展形、カロリング圏

聖母教会
マーストリヒト(オランダ)
サン・ジェルトリュード教会
ニーヴェル(ベルギー)
サン・マルタン教会
マルムーティエ(フランス)

 マーストリヒトの聖母教会西正面は1000年頃(身廊以東は12世紀に改築)のもの。2塔で長方形プランであるが後に主流となる2塔型西正面の過渡期にあたる。サン・ジェルトリュード教会の西正面は12世紀末に建てられ、1980年代に創建時の姿に復元された。身廊はヒルデスハイムのザンクト・ミヒャエルと共にオットー朝を代表する遺構。極めてマッシブであるが二重内陣型であるので本来のヴェストヴェルクから少し外れる(とは言ってもヴェストヴェルクとして扱う本もある)。マルムーティエのサン・マルタン教会は現在フランスのアルザス地方に位置するが、シュパイアーの作例によく似る。

シント・セルファース教会、マーストリヒト サン・バルソロミュー教会、リエージュ

 聖母教会と同じくマーストリヒトにあるシント・セルファース教会も戦後の火災を機会に12世紀の姿で復元された(それまでは中央に塔があった)。リエージュのサン・バルソロミュー教会と同様に箱形の躯体の上に2本の塔を建てている。この二つの町はアーヘンから電車だと30分くらいの近い所にある。サン・バルソロミューは身廊も変わっていて12世紀に建てられているのに分離型袖廊を採用している。この二聖堂とも、扱いの難しい中央塔をやめ二塔型となった。後に発展する二塔型西正面の原型とされている。


ザンクト・パウルス教会
ヴォルムス

 ヴォルムス大聖堂近くに建つザンクト・パウルス修道院聖堂は西側の塔が1005年、ヴェストヴェルクが13世紀に入ってから建てられたラインラント地方最後のヴェストヴェルクである。当初は大規模な建築で用いられていたヴェストヴェルクがザンクト・パウルスのようなたいへん小規模な聖堂に用いられたことは末期的な現象か。

ヴェストヴェルクの発展形、ザクセンファサード
ザンクト・マリアーエ大聖堂
ヒルデスハイム
ザンクト・ブラージウス大聖堂
ブラウンシュヴァイク

 ヴェストファーレンからザクセンにかけて大聖堂の西正面は共通してマッシブな一枚板のような印象がある。「千年長寿の薔薇」のザンクト・マリーエンは薔薇の木と共に空襲で崩壊したが戦後再建された。ザンクト・ブラージウス大聖堂は皇帝に対抗したハインリヒ獅子公が威信をかけて建てさせた聖堂で「皇帝大聖堂」ではないがそれに準じる規模を持つ。ブラウンシュヴァイク市内にある大教会もこの聖堂の影響を受けている。


これらもヴェストヴェルクか?
ザンクト・ミヒャエル教会内陣聖歌隊席浮彫、ヒルデスハイム、12世紀)

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