ローエングリン、アントヴェルペンに現る(932AD)

三幕のロマンティッシュオペラ・ローエングリン リヒャルト・ヴァーグナー(1813-1883)
 1850年ヴァイマール宮廷歌劇場で初演された『ローエングリン』は作曲家の生前代表作とされ、当時最も言及された作品であった。この作品は「オットー朝時代」と呼ばれる10世紀前半のアントヴェルペンが舞台である。第一幕はスヘルデ河畔の緑地、第二幕はアントヴェルペン城塞内、そして第三幕は前半が場内、後半が第一幕と同じ場所である。
 前奏曲が終わり幕が上がるとドイツ王ハインリヒ1世(876−936、王位919〜936)の伝令が現れ、ブラバント貴族の召集を伝える。貴族や騎士が集まるとハインリヒ1世が登場しマジャール(ハンガリー人)に対する反撃のため参加を募る。

捕鳥王ハインリヒのアントヴェルペン巡幸の目的
 カール大帝が亡くなり、「ヴェルダンの条約」に基づいて3分割された結果、弱体化したカロリング帝国は西からのヴァイキング、南からのイスラム教徒、東からの異教徒騎馬民族マジャール人による侵入により危機にさらされ、主な都市や修道院は略奪を受けた。ザンクト・ガレンの記録にもマジャールの略奪を受けたことが記された。カロリング朝最後の王コンラート1世により次期ドイツ王に推挙されたザクセン大公リウドルフィングのハインリヒ1世にとってザクセン地方は本拠地であり、東からのマジャール人の侵入は深刻であった。ハインリヒ1世はドイツ王になると早速マジャールへの反撃を計画する。しかし時期尚早とみて9年間休戦協定を結ぶ。(923年)。9年の間貢納を強いられたが、その期間をハインリヒ1世は兵力の増強、王国内部での諸侯の結束、城塞の建築や整備を行い対マジャール戦力の増大に務めた。9年の後、戦力の充実したハインリヒ1世はヴェルラ城に取り立てに来たマジャール使節を追い返すことで反撃を開始した。マジャール人がドイツから一掃されるのは次のオットー1世の時代、「レッヒフェルトの戦い」(955年)での決定的な勝利によってである。マジャールがキリスト教化されるのは更に2世代後のオットー3世の頃からであった。
 当時のドイツ王(神聖ローマ皇帝と呼ぶようになるのはもっと後のこと)は固定した宮廷を持たなかったので徴兵や徴税には自らが赴く必要があった。ハインリヒ1世がアントヴェルペンにやってきたのもそうした巡幸の一環であった。

10世紀前半のアントヴェルペン
 アントヴェルペンは既にローマ時代には一定数の住民が住んでいたことが20世紀に行われた発掘から明らかにされた。現在は海に沈んでしまったが女神ネヘレニアに捧げられた神殿を中心とした聖域も存在していた。オルトルートもこの神殿で異教の神々に祈っていたのであろう。7世紀中頃にはエリギウスとアマンドゥスが布教を行ったことが知られ、このことからも西ローマ滅亡後も引き続いてかなりの数の住民がいたことを示している。「ベルギーの使徒」アマンドゥスはここでペテロとパウロに捧げた教会を建て、後にこの教会はエヒテルナッハの聖ヴィリブロード修道院所有となった。9世紀に入るとヴァイキングの侵入(836年)があり聖ペテロ・パウロ教会は破壊された。843年に防備のため、破壊されていたローマ時代の城塞をもとにマルクトからそう遠くないスヘルデ河畔に城塞ステーエン(後に拡張され、現在は国立海洋博物館となっているが一部に当時の遺構が残る。)が造られ、オットー朝時代には帝国城塞として位置付けられていた。

 1:ステーエン(現在の国立海洋博物館)
 2:シント・ワルプルギス教会(現在観光船発着場)
 3:ブルフの堀
 4:ヴィス・マルクト(魚市場)
 5:フローテ・マルクト(現在の市庁舎前大広場)
 6:ノートル・ダム教会(現在の大聖堂)
 7:シント・ミカエル修道院
10世紀頃のアントヴェルペン

ローエングリン伝説
 叙事詩『ローエングリン』はルドルフ・フォン・ハプスブルクの時代に成立(1280〜88)した。ローエングリン(ロヘラングリン)がアントヴェルペンに現れるという伝説は古くからあったらしい。ライン河畔に現れるという伝説の方がオペラ以前よりよく知られ、ミンネゼンガーのヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハ(1170?〜1220?)が記した『パルチヴァール』にも登場していた。

ドイツ王ハインリヒ、アントヴェルペンでローエングリンと会見する
 第一幕のハインリヒの科白によりアントヴェルペンにローエングリンが現れたのは932年であることがわかる。ハインリヒ1世とローエングリンが出会った932年頃のアントヴェルペンはカロリングから分かれたフランス勢力とドイツ王領の境界にあり貿易及び戦略上重要な場所で辺境伯領となっていた。オペラで言われるようなブラバント公領になったのは1106年である。当時の都市はステーエンを核に防壁で囲まれた部分が実質上の区域で現在の旧市街の中心とかなり違った場所であった。

ローエングリンとエルザの挙式を挙げた聖堂
 二人が第二幕で挙式を挙げるため入場した可能性のある聖堂としてノートル・ダム教会、シント・ワルプルギス教会(現存せず)、シント・ミカエル修道院聖堂(現存せず)の三教会が候補として挙げられる。
 まず現在の司教座大聖堂であるノートル・ダム教会。1352年に着工されたゴシック様式の聖堂で先行する教会に代わって建てられた。次に10世紀当時、城塞内にはシント・ワルプルギス教会があり、ステーエンからも至近距離であった。また、城塞から南に600m離れた場所(現在の王立美術館よりもっと手前)に建てられたシント・ミカエル教会は破壊された聖ペテロ・パウロ教会を引き継いでいるといわれ、アントヴェルペンの首位教会であった。
 これら3教会の中からまず、ノートル・ダム教会は11世紀末に建てられているので除外される。残りの二つのうち、城塞内のシント・ワルプルギス教会は城塞(オペラでは騎士館)から近く行列を作って入場するのにも最も舞台設定に近いが小規模な聖堂でブラバント後継者の式場としては格が低いので可能性は低い。最後のシント・ミカエル修道院聖堂は町で最も古く格式の高い首位聖堂であり、シント・ワルプルギス教会よりも規模は大きい。オペラの台本でも挙式を挙げる聖堂についてDomやKathedralではなく修道院由来のMünsterとしていることからこの聖堂で挙式を挙げた可能性が最も高い。

『ローエングリン』舞台
 『ローエングリン』の舞台背景からシント・ミカエル修道院聖堂がどのようになっているかをみてみると下の図のような聖堂が背景に描かれていた。ハインリヒ1世はいわゆる「オットー朝」の始祖とされるが、オットー朝建築が開花したのはハインリヒ1世の死後、950年以降である。この間は対マジャール戦と内乱のため建築どころではなかった。シント・ミカエル聖堂はカロリング朝の影響が濃い建築だったのではないかと想像される。ミュンヘン(改)の舞台は入口しかみえないがルネサンス建築のように見え、オットー朝前にしては賑やかな外装である。ペテルブルク初演の舞台は風車が画期的(記録上風車が現れるのは12世紀)、喜劇かと思った観客もいるかもしれない。聖堂の方はブラバントでよく見かけた単塔型(ゴシックが多い)であり、地方色を出そうという努力がうかがえる。19世紀のロマネスク再現は実際の「復元」建築(または偽ロマネスク)などの結果をみるとおりで舞台背景も似たようなレベルにある。バイロイトでの舞台はこれまた画期的なゴシック様式になっている。これもヴィーラント様式か。

1858年ミュンヘン初演に準拠し1868年に製作された舞台。ラインラント風な雰囲気を少しだけ感じるが、カロリング〜オットー朝のプレロマネスクとしてはかなり雰囲気が違うような気がする。
1868年ペテルブルク初演の舞台装置
何と風車!がある(風車が登場したのは12世紀から)。このままミュージカル「フランダースの犬」の舞台装置として転用可能?
1958年バイロイト、ヴィーラント・ヴァーグナー演出、アンドレ・クリュイタンス指揮
後方にあるアーチは盛期ゴシック様式、10世紀の尖頭アーチは革新的。湾曲しているのでアプシスであることを示しているがこの時代にこれだけ開口部をとることはなかった。さすがヴィーラント様式。


Musica   WINDS CAFE 12の『ローエングリン』   Pirvs Lvdensアントヴェルペンに現る(1998AD)
  
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