モンブラン
Gateau Mont-Blanc


 秋の味覚の栗をふんだんに使ったお菓子、ガトー・モンブラン(直訳すると「白い山」で見かけに反している)は栗ペーストによる細い麺状の盛り上げ装飾が外見上の特徴である。特に1999年の大流行で味も見た目も個性的なモンブランがたくさん現れたが、多くは麺状装飾を踏襲していた。このお菓子を創出した職人は不明であるがフランス生まれのお菓子あることは確かで、出来上がったお菓子が丸みを帯びたアルプスのモンブラン(4807m)に似ているところがあるため命名されたという話を聞いたことがある。有名なのはプランタンにあるカフェ・アンジェリーナの超甘巨大モンブラン、かなり甘い上大きいのに売り切れていることが多い。ヨーロッパの栗を使った限定モンブランを出していたがその後見かけない。頂上に栗をおいたワンポイントアピール型、中にマロングラッセを隠した豪華なもの、内部にはクリーム、ムース、スポンジケーキなど様々であり、派生型にはいよいよ「白い山」から遠のいた紅芋を使った紫色モンブラン、タルト型、他の果物とハイブリッド化されたものなどがある。


モンブラン(エコール・クリオロ)

 モンブランの基本型を崩さずに「白い山」に近づけようという努力もみられ、お砂糖のホワイトパウダーをかけたものは本当に積雪した山を思わせる。クリスマスケーキとしてモンブランが登場することがあり、その時には山にクリスマスツリーが植えられたり、サンタさんが佇んだりすることもある。しかし、バースデーケーキには向かないせいか見たことがない。。


 ある時、いつものようにおやつ時間にモンブランを食べながら(かなり甘いので紅茶は少し渋めにいれてバランスをとる)中世美術の本をみていると「キリストの洗礼」と呼ばれる図像のいくつかに気になる特徴をみつけた。

サン・バルテルミーの洗礼盤 マリア・リース教会天井画 エヒテルナッハの黄金福音書
リエージュ、サン・バルテルミー教会 ケルン、マリア・リース教会 ニュルンベルク、ゲルマン博物館
1107〜1118年頃 13世紀初頭 1030年頃

 上の三例はどれも「キリストの洗礼」である。左は洗礼盤の浮彫で、洗礼盤の装飾はその目的から「キリストの洗礼」場面が多い。ルニエ・ド・ユイによる柔らかな表現は最もモンブランに似たものとしている。中と右はキリストの生涯を時系列に展開していく一連の図像の一つである。キリストは洗礼者聖ヨハネによりヨルダン川で洗礼を受けた。キリストの年齢も子供から壮年まで様々であるのも興味深いが、ヨルダン川の形が奇妙でどうみてもモンブラン!である。探してみるとこの頃の写本や浮彫にモンブラン化ヨルダン川が多くみつかった。一方、ラヴェンナの正教徒洗礼堂の6世紀のモザイクをみると、視覚的に普通の川の表現であり、他のビザンティンの写本などにもモンブランは見られなかった。


ビザンティンの一例:正教徒洗礼堂天井モザイク、ラヴェンナ、5世紀


 そこで、エミール・マールの『ロマネスクの図像学』をみてみると(巻末に索引がついているので調べることができる。しかし「モンブラン」はインデックスになかったので「キリストの洗礼」でみた)モンブラン化ヨルダン川について次のような記述を見つけた。
 キリストが浸されている川はきわめて奇妙な外観を呈している。それはドームのような形で、キリストがその中心にいるが、川はまるで彼のまわりに釣り鐘状に広がる一枚の衣のようであり、その流れは、外に拡散するのではなく上に盛り上がっているのである。そこにはオリエントの素朴な人々にとって親しいものであった幼稚な自然観が認められる。エジプト人やアッシリア人はこのような形でしか風景というものを理解していなかったのである。ギリシア人はどうであったかといえば、彼らは遠近法を知っていて、「キリストの洗礼」でも、水平な線が川の水位を示している。水位がほとんどキリストと同じ高さにまで登っているシリア型「洗礼」図は、オリエント芸術のもっとも古い伝統がいき続けていたこのメソポタミアの辺地でしか構想され得なかったのである。…こうした例は、フランスの芸術家たちがシリアの原本ではなく、そこに源を発するラテン語写本に着想を得ていたことをはっきり証明する。小アジアやシリアの修道院は、きわめて古い時代からガリアの諸修道院と緊密な関係を保っていた。オリエントはメロヴィング時代からその図像をフランスに伝えてきたのであろうが、今日、そのことを証明するものは何も残っていない(上, p.115)。

 上の画像はゲルマン圏のものばかりであるが、マールの著作はフランスについて書かれているので、ある地域に限定された図像ではなくてヨーロッパ中に普及していた図像といえる。それにしてもどうしてヨルダン川がモンブランになってしまったのか。マールの言う「エジプト人やアッシリア人はこのような形でしか風景というものを理解していなかった」も少し疑問である。

 その後パノフスキーの『象徴形式としての遠近法』(木田元監訳、哲学書房、2003年)を読んだときに全く別の解釈を見いだした。

 キリストの洗礼図において遠近法的に短縮されていたヨルダン川が「水の山」(Wasserberg)に転じている周知の例が明らかに示してくれよう。ビザンチン絵画およびビザンチン風絵画には、通常、奥の方へ収斂してゆく川岸の形や、水のきらきら輝く透明性がまだはっきり認められるが、純粋なロマネスク様式(それへの移行はすでに紀元千年頃に見てとられる)は、[その展開にともなって]ますます断固たる態度で、絵画的性格をもつ波を立体的に固定された水の山につくりかえ、空間を表示する見かけの上での収斂を「装飾的な」平面形象につくりかえてしまう。・・・こうした徹底した変形によって、あらゆる空間的イリュージョンが決定的に放棄されてしまったかのように思われるのであるが、それにもかかわらず、まさしくこの変形こそ、真に近代的な空間観が成立するための予備条件なのである。というのも、もしロマネスク絵画が物体と空間を同じ仕方で、同じように決然と平面に還元してしまっているとすれば、それはまさしくそうすることによって、空間と物体とのゆるい光学的統一性を確固たる実体的統一性に変じ、両者の等質性をはじめて真に確立したことになるからである。

 エミール・マールの『ロマネスクの図像学』の刊行が1922年、パノフスキーの『象徴形式としての遠近法』が1924−5年でほぼ同時代である。先に感じた疑問はマールがどうやら「オリエントの素朴な人々」について偏った先入観を持っていたことからきたらしい。ヨルダン川以外の川の表現を見ると(例えば『バンベルクの黙示録』の「生命の川」や、サン・サヴァンの洪水場面)、「モンブラン」はヨルダン川だけの特権のようであり、「幼稚な自然観」というのは間違っていることになる。
 ゴシック時代には廃れてしまったWasserbergは時の変成作用を受けてWeissbergに転じたのであろうか。

モンブランでないヨルダン川
 旧約聖書のヨシュア記に聖櫃を担ぎヨルダン川を渡る記述がある。この場面を描いた写本をみると普通の川の表現になっている。また、コプト系写本の中で普通の川で洗礼を受けるキリストが描かれ、オットー朝の『ヒトダの福音書』(ケルン派、Darmstadt, Cod. 1680)にも同様の表現が見られた。


聖櫃のヨルダン川渡河(ヨシュア記)


モンブラン化の過程
 カロリング時代に描かれたミュスタイルの洗礼図をビザンティン写本と比べるとモンブラン化の過程が浮かび上がってくるように見える。


カロリング朝時代の洗礼図、ミュスタイルの壁画


ビザンティン写本から

 ビザンティン写本で川岸の複雑な線を鋸歯状で表現しているが水平線があくまで保たれている。ミュスタイルでは同じ鋸歯ながら水平線はなくなっているがまだモンブランに至っていない状態である。




同じくミュスタイルの1080年代に制作された浮彫

 ミュスタイルの聖ヨハネ修道院はスイス東部グラウビュンデン州の東端(ミュスタイル渓谷)に位置する。同州はヨーロッパでもシャンパーニュ地方とならんで栗の産地として有名である。壁画はエミール・マールやパノフスキーの著作の出版後に発見された。


ミュスタイルの隣村、タウファースの聖ヨハネ施療院聖堂の壁画

 これもモンブランの一例であるが更に興味深いのはキリストの足元に見える人影で踊り飛び込んでいるかのようである。今のところ同じような例を見ていないが別項で取り上げる。


『ハインリヒ獅子公の福音書』から、台形型モンブランもあった。左はシェ・シーマのモンブラン


再びさくらの部屋へ

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