メリュジーヌの遺産
Pt. 2.


『メリュジーヌ物語』
 ポアチエ近郊の領主、レモンダンは妖精(はっきりした素性はレモンダンにも最後まで明かされない)メリュジーヌと出会い、毎週土曜日に何をしているか詮索せぬこと、知ったとしてもそれを人に話さぬことを条件に結婚する。結婚直後からメリュジーヌはリュジニャンに居城となる城を築いたのを最初にポアトゥー全体に町や城、教会を建てていった。10人の子供たちは体のどこかに一カ所欠陥があった(牙のような歯、三つ目など)が何れも素質に恵まれ、エルサレム、アルメニア、キプロス王となった。一族が絶頂のなか、ある日レモンダンはついに禁を破ってしまう。土曜日に水浴中のメリュジーヌの姿を見てしまうのである。メリュジーヌは上半身が女性の体、下半身は蛇の妖精であった。姿を見られたメリュジーヌは一族の繁栄と衰退を予言し、リュジニャンの領主が代わる三日前に告知することを約束し永遠にレモンダンの前から姿を消す。物語後半は子供たちの活躍と末裔の現在が述べられる。

史実
 リュジニャン一族は実在した一族で本家は1308年に断絶するが分家は『物語』にあるように繁栄し、エルサレム王、アルメニア王、キプロス王となった。しかし急速に衰退し15世紀にはパルトネィに細々と命脈を保つのみであった。『物語』中の記事は当時作者が知り得た史実が織り込まれている。
から存在していたと思われる。メリュジーヌには水のイメージがつきまとっている。その点ウンディーネやメリザンドと同系列にある。『物語』の特徴は実在した一族の起源が妖精と結びつけられたこと、メリュジーヌの「蛇」という悪魔的イメージ

伝承
 物語は1398年にジャン・ダラスがベリー候ジャンのため、1401年にクードレッドがパルトネーの領主のために書かれた。ランブール兄弟が製作した『ベリー候の豪華な時祷書』の「3月」は当時ベリー候が所有していたリュジニャンの城塞が描かれている。12世紀にシトー会修道士により言及されたのが記録上最古であるが伝説そのものは口伝によりずっと以前にも関わらずむしろキリスト教に肯定的(むしろ信仰に篤い)であることが挙げられる。「蛇」のイメージはキリスト教により呪われた、邪悪な存在とされる一方、豊穣、知恵(ツァラトゥストラにも登場する)、治癒力、永遠性(尾をくわえた蛇)を意味する。中世の伝説では女性と蛇が結びついたが、ずっと後にルドンにおいて蛇はついにキリストと合体するようになる。

メリュジーヌとアリエノール・ダキテーヌ
 クードレッド(後出)の記述するメリュジーヌはアキテーヌ女侯アリエノール・ダキテーヌ(1120ー1204)の面影が色濃く残っている。アリエノール・ダキテーヌはアキテーヌ候の一人娘として生まれ祖父はトルバドールの始祖、父親は幼い頃に巡礼の途中亡くなった。父親の没後すぐにフランス王子(間もなくフランス王となる)と結婚し、第二次十字軍に夫妻共々参加した後離婚、すぐにイングランド王妃となった。リチャード獅子心王やジョン欠地王の母親でもある。リュジニャン一族は彼女の臣下であった。アリエノールはポアチエ伯・ガスコーニュ伯を兼ねていたが父祖伝来のポアチエの宮廷を最も愛し、ポアトゥー地方が繁栄するよう絶えず配慮していた。この地方の数多くの聖堂を新築・改築の援助したのもアリエノールであり、一漁村だったラ・ロシェルを港として開発を行い後の軍港都市の基礎を作った。これらの事跡はメリュジーヌの事業として物語に盛り込まれている。後にはこの事実が逆転してしまい、アリエノールがメリュジーヌの再来と言われたこともある。

アリエノール・ダキテーヌは、しばしばメサリーヌやメリュジーヌと比較されてきた。メサリーヌの方はあえて反論するつもりもないが、メリュジーヌと同一視するのは少々酷ではないだろうか(現代的な考え)。メリュジーヌはポワチエ地方の伝説に歌われた妖女である。

『アリエノール・ダキテーヌ』、p7、ペルヌー、福本秀子訳、パピルス、1996年

ルドンとメリュジーヌ
 オディロン・ルドンの出身地ボルドーはポアトゥー地方のすぐ南でアキタニアの中心都市である。アリエノール・ダキテーヌがフランス王ルイ七世と結婚式を挙げた所でもある。ルドンはタルモンとロワイアンのちょうど中間にある避暑地サン・ジョルジュ・シュル・ディドンヌで毎夏を過ごしていた。この地方の聖堂は怪物彫刻の宝庫である。ルドンの作品に登場する多くの怪物についてこれまで想像=創造として見られ、ルドン自身もそのように述べているがこうした彫刻群(ボルドー地方にもある)を含めた上で見直す必要があるのではないかと思っている。メリュジーヌをテーマにした作品はレゾネを見る限りないようである。近い作品として版画集『ギュスタフ・フローベルに』(『聖アントワーヌの誘惑』第二集、1889年)の『死−わが皮肉は他の一切を超越する』(pl.3)はこの作品をもとにした油彩画『緑の死』と共にメリュジーヌのイメージがある。死と豊穣という相反するメリュジーヌ伝説において通奏低音のように潜在していたのがこの『死』によって「絶対的なイメージ」(マラルメ)で描かれた。

メリュジーヌ関係の資料

妖精メリュジーヌ伝説
クードレッド作、森本英夫・傳田久仁子訳
現代教養文庫、社会思想社、1995年(絶版)
ISBN:4-390-11584-7
 クードレッドのたぶん最初の訳で、訳文は散文に直されている。文中に15世紀の挿画が多数おさめられ、巻末にランブール兄弟の「リュジニャン城」も掲載されている。カバーイラストが素晴らしい。

メリュジーヌ物語
クードレッド作、松村剛訳
西洋中世綺譚集成、青土社、1996年→後に講談社学術文庫から再刊
ISBN:4-7917-9132-0(青土社)
 こちらは韻文で訳されている。後半にアナール派の中世史家ジャック・ルゴフらによる「母と開拓者としてのメリュジーヌ」を収録する。

メリュジーヌ 蛇女=両性具有の神話
ジャン・マルカル著、中村栄子・末水京子訳
大修館書店、1997年
ISBN:4-469-21208-3
 メリュジーヌ伝説の「元型」がケルト起源であること、物語構造が世界中に、日本でさえも、普遍的に存在していること、などを明らかにする。



以下の引用はクードレッド作、松村剛訳『メリュジーヌ物語』(青土社、1996年)による。( )内は行番号。

メリュジーヌは、どのように作業するかを決めていた
固い岩の上に最初の石を置いて据えた
わずかの時間で彼らは大きな塔を建て、見事に作った
彼女の指示通り、断崖の上にしっかり乗った高い壁も作り上げた

(1320-6)


『メリュジーヌ物語』に登場するところ

この年、ラ・ロシェルを美しい奥方メリュジーヌは建造した
(1413-4)
大西洋岸の港町ラ・ロシェル La Rochelles の要塞建設は11世紀に始まる。現存するのは14世紀以降に建てられたもの。ナポレオンが最後に滞在したフランスの町でありシャラント産ワイン(特にコニャック)はこの港から輸出された。コローの風景画で有名。

その後、間をおかずに
サントにとてもきれいな橋を架けた 

(1416-7)
サント Saintes 市街の中心を流れるシャラント川の中州にガロ=ローマ時代の「ゲルマニクスの凱旋門」が建てられ、そこに美しい橋がかけられていた。
現在は川の流れが変わり凱旋門は川岸にある。

タルモン地方でも働き
それゆえ高い名声を獲得した

(1419-20)
タルモン Talmont sur Gironde という地名はサントンジュ地方に二つあるが、ジロンド河口のほうを指す。今でこそ田舎の村落であるが12世紀にはサンチャゴ・デ・コンポステーラへ出発する重要な港であった。港を見おろす岬に12世紀に建てられたサン・ラデゴンド教会

彼女は当時、ニオールで一対の塔を持つ美しい城塞を建てていた  (2839-40)
城塞については世俗ロマネスク。本書で具体的に建築の特徴を挙げ、それが現在も確認できる唯一の例


聖堂のアプシスに記されたメリュジーヌの署名、 Eglise Saint Pierre, Aulnay de Saintonge

メリュジーヌの遺産
Pt.1 ポアトゥー・サントンジュのロマネスク
Pt.3 カニグーのサン・マルタン修道院

  

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