リルケとレース
Rilke et dentelles
こんなレースをつくった人は、 もうきっとうつくしい天国へ行っているんでしょうね と、僕は驚嘆のこえを放った… ママンが低いこえで返事をした。 『マルテの手記』、大山定一訳 |
ベルンからリルケが眠るローヌ渓谷のラロンまで約三時間、途中でシオンやシエールに立ち寄るため早い時間に出発した。スイスの秋の早朝は夜といっていいほど暗く、車窓からの風景を見ることも出来ない。海外へ行くと寝起きがよくなり眠くないので、『マルテの手記』を読み始める。 マルテはデンマークの由緒ある家に生まれ、幼年時代を過ごした。母親はレースのコレクションを持っていて、マルテと一緒にレースのコレクションを見ているところである。木の棒に巻かれたレースを次々に解いては眺めていく。ハンカチや帽子など小物を除くとレースはスカートの襞飾りなどに用いられるためテープ状で数メートルの長さがあるので保管するときには棒などに巻いていた。今でもアンティーク・レース店で巻かれた状態のレースを見せてくれ、切り売りする所もある。 次々と巻き解かれていくレースは何れもヨーロッパの代表的な種類で、イタリア式、ヴェネツィア風、アランソン、ヴァランシエンヌ、バンシュと歴史順に登場していく。リルケはレースに詳しくささやかなコレクションを持っていたという。 |
「イタリア式のふちかざりのレース」 布地から糸を抜いて作った最初期のカット・ワーク、原型は古代エジプトまで遡る古いタイプ。糸を抜いたり布をカットするだけなので数センチ毎の幾何学模様の規則的な繰り返しである。ヨーロッパでのレースの起源はヴェネツィアとされ(ベルギーではそう思われていない)、このタイプもヴェネツィアで作られた。代表的なものにレティセラがある。 「ヴェネチア風の網目細工のレース」 「ぱっとひらいたポアン・ダランソンの花」 「ヴァランシエンヌの長い道路」
Valencienne kant, 18c. 「まるで雪でもふったようなバンシュの潅木林」
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しかしついには、全てを犠牲にして、この物が 生まれ出たのだった。それは生より軽いわけではない、 しかし完成されたものであり、そしてほほえみそして天空に 漂うのにもはや早すぎることはないほどに美しい。
『レース』、富岡近雄訳
後期の詩集『新詩集』のなかに『レース』という詩がある。遠い昔、花模様の素晴らしいレースをつくった人のことを思うこの詩は、手を慣れさせるため三歳から始め、見えないくらい細い糸を見るため目を酷使した結果早くに失明し、糸を保護する必要から湿気の多い地下室で作業を続けるうちに健康を害していった無名のレース工がつくった17世紀ヴァランシエンヌのような緻密な作品を念頭においたと思われる。この詩は冒頭に引用した『マルテの手記』の一節と共にそうした無名のレース工たちと作品への最高のオマージュである。 |
レースの一巻き、この花模様の緻密なレースの一巻きが、 私をここに留まらせるに 十分ではなかろうか?見たまえ、これは為されたのだ 『新詩集』から富岡近雄訳 |