ライン宮中伯
Rheinische Pfalzgraf im 12 Jahrhundert.

ラーハ湖畔から
 マリア・ラーハの修道院を訪れていつも不思議に思うのは、六本の塔が群立した二重内陣形式のプランにアルプス以北で最大のアトリウムがつくドイツ皇帝でなければ建てられないような素晴らしい聖堂建築を一介の伯がどうして建てることが出来たのだろうかということであった。この形式はオットー朝時代に建てられたヒルデスハイムのザンクト・ミヒャエル教会が初出でありマリア・ラーハで洗練され完成されている。

同一スケールのプラン
ザンクト・ミヒャエル教会、ヒルデスハイム
当初は西側にアトリウムがあった
ベネディクト会修道院聖堂、マリア・ラーハ
東の二塔は内陣両側にある

 マリア・ラーハの聖堂はシュパイアー大聖堂に代表される皇帝大聖堂ほど大規模ではないものの、多額の資金と優れた設計者、施工者がいたであろうことは一見してすぐ見てとれる。

Benediktinerklosterkirche Sankt Mariae, Maria Laach

 修道院設立の歴史を見ると、ライン宮中伯ハインリヒU世が自分の墓所として1093年にラーハ湖畔のローマ時代以来墓地であった場所(湖を挟んだ対岸に宮中伯居城がある)に修道院を設立した。1112年、現在のブリュッセル近郊に本拠地があったアフリジェム修道会傘下となり、1127年にクリュニー修道会所属となった。クリュニー会に属してから聖堂建築が活発になり、1156年8月に奉献された。それ以後は完成までに長い時間がかかり、1170年東内陣完成、1194年までには西内陣が完成し最終的に1230年のアトリウム完成まで約100年を費やしている。完成までに数百年かかったゴシックの大聖堂(バルセロナのサグラダ・ファミリアを加えてもよい)を別にすればマリア・ラーハの建設は異例の長期間である。ベネディクト会になったのはナポレオンによる修道院世俗化の後、19世紀中頃になってからで比較的新しい。

 最初の疑問について建築史からいくつかのポイントになりそうなものを拾ってみる。修道院設立者ライン宮中伯ハインリヒU世、最初に所属したアフリジェム修道会、聖堂建設時に所属したクリュニー修道会である。アフリジェム修道会に関しては所属した間に聖堂の建設はほとんど進んでいなかったので除外してよい。クリュニー会は当時最大の規模を持った第三聖堂をはじめフランスを中心に多くの聖堂を建てている。同じクリュニー傘下であったヴェズレーのサン・マドレーヌ修道院聖堂は基準単位法から外れたプランという点でマリア・ラーハと共通していて関連性があると推測されている。ここではライン宮中伯についてみていくことにする。

ライン宮中伯
 宮中伯 Pfalzgraf は元来国王の居城を管理する役職であった。メロヴィング朝時代に裁判長、カロリング時代に国王代理を務めるようになる。916年の文書に「宮中伯」の単語が見られる。オットー朝時代に部族大公を統制して皇帝の権利を守るため、皇帝の支配が弱い大公領に派遣され、オットーT世によりロートリンゲン、バイエルン、シュヴァーベン、ザクセン宮中伯が置かれている。このうちロートリンゲン宮中伯はライン伯、後にラインプファルツ伯を経て選帝侯となり後代まで存続したが他は他の役職に吸収されるなどして13世紀には消滅した。ロートリンゲンはミューズ川とライン川に挟まれた地域で現在のドイツ西部、ベルギー、フランスの一部にあたり最も豊かな地方である。

エッツォ一族
 宮中伯ハインリヒU世は「エッツォ家」Ezzoと呼ばれる一族の一人であった。初代エッツォは1023年に宮中伯となった。マチルダ(オットーU世とテオファヌの娘)と結婚し、息子のオットーが後を継いだ。オットーと兄弟であったヘルマンはケルン大司教になっている。オットーは子なく没し一族の中からハインリヒT世が継いだ。ハインリヒU世はその息子で1095年4月12日に没しエッツォ家直系の最後となった。ハインリヒU世の義理の息子が後を継ぎ、1227年まで続く。一族最後のハインリヒが後継者なく没した後、ライン宮中伯はヴェルフ家のものとなった。

一族による司教、修道院長職独占
 エッツォ一族は帝国の重要な修道院長の地位を占めた。エッセン、マーストリヒトのシント・セルファース、現在はベルギーフランス語圏のニーヴェル、ガンダースハイム、ノイスディートキルヒェン、ケルンのザンクト・マリア・イム・カピトール及びザンクト・アポステルン、アイフェル(現在のミュンスターアイフェル、一時司教座も置かれていた)の修道院長、マリア・ラーハ(妻と共同で)設立、マインツヴォルムスケルントリーアの司教などの地位を独占した。そしてこの一族の活躍した時期はライン・ミューズロマネスクの最盛期である。上記の修道院もこの時期に聖堂の新築や改築が行なわれ(必ずしも一族出身の修道院長在任期間と建設時期は一致しないけれども)、その一つ一つが完成度の高い個性的な建築である。

聖堂建築を可能にしたもの
 マリア・ラーハに戻ると稀有の聖堂建築を可能にしたものとして資金と設計者を挙げた。宮中伯の領地で中心となるロートリンゲン(ロタンギリア)はヨーロッパで最も豊かな地域であり後にはブルゴーニュのシャルル突進公がブルゴーニュ公国として統一しようとした。しかも宮中伯領はロートリンゲンに加えて12世紀には更に領地を拡大していた。ドイツ皇帝の臣下の中でも特に豊かであり、一方ドイツ皇帝は叙任権闘争の長期化と最終的な「カノッサの屈辱」で臣下諸侯に対する支配力が衰え、その分臣下の力がつくことになった。こうしたことから領内で聖堂を建てるとき宮中伯から充分な資金を期待できた。
 次に設計者と施工者について、宮中伯の元来の役職は国王居城の管理であった。これには築城とその保守が含まれ、世俗ばかりでなく帝国修道院や王室礼拝堂なども対象であったと思われる。建築関係者は宮中伯の配下であり聖堂を建てるときにこれらの人員を転用可能だったと思われる。また、多くの聖堂を手がけることにより様々な技術を蓄積することができ、こうして得た技術がマリア・ラーハの聖堂で最高度に発揮されたのではないかと思われる。
 さらに、クリュニー傘下となったことからクリュニー会の聖堂建築技術が投入された可能性もある(ヴェズレーと同じく基準単位法から逸脱しているのはこのためか?)。

 聖堂に入るとすぐに西内陣の空間であり、そこには彩色された一つの棺が置かれている。13世紀に製作された修道院設立者ハインリヒU世の木製の棺で横臥像は中に眠る人物を表し、手には奉献した聖堂の模型を持っている。政治上ではさしたる成果をもたらさなかった棺主は百年も前に亡くなり、エッツォ一族の家系は既に絶えているのに手間のかかる棺を製作したのは、それだけ修道院にとって感謝すべき人物であったのかもしれない。


Maria Laach Abbey, Verlag Schnell, 1997. より

        

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