ヒルデスハイムの四聖堂
− ベルンヴァルトの計画都市 −

 ヒルデスハイム(ニーダーザクセン)はハノーファーから30分ほど、かつての皇帝の居城があったゴスラーやハインリヒ獅子公のブラウンシュヴァイクにも近い地方都市である。815年にルートヴィヒ敬虔王が司教座に定めたのが町の始まりで伝説によると一本の薔薇の木(Thausendjhare Rosenstock)から発展したとされている。オットー朝時代に最盛期を迎え、司教ベルンヴァルトにより今日オットー朝建築の代表作として知られるザンクト・ミヒャエル教会をはじめとしたモニュメントが次々と建てられていった。ベルンヴァルトはオットー2世妃テオファヌの顧問であり、オットー三世の教育係も務めた。ベルンヴァルトについてフォションは『ロマネスク』の中で次のように述べている。

(ベルンヴァルトの師であったタングマルの書いた伝記によると)文学的造詣の深さのみでなく、道具を用いての工芸の分野でも並々ならぬ技量を発揮した疲れを知らぬ百科全書的な頭脳の持ち主として描かれている。旅行家、建築家、工兵技師、能書家としての彼は、また鋳造師と金銀細工師たちの仕事に常日頃接していたのである。「彼は様々なる用途の金属が造られている工房を訪れて、個々の作品を仔細に検討した。

「ロマネスク」(神沢栄三他訳)、p108、原注1

 こうした経歴をみると、10世紀のレオナルドと呼べるかもしれない(というよりレオナルドを「ルネサンスのベルンヴァルト」と呼ぶべきか)。後述のようにベルンヴァルトは都市計画を実際に実行したが、レオナルドもルネサンス的なやり方で都市計画を行っている。また、ベルンヴァルトの『ブロンズ扉』は当時の技術水準への挑戦だったようにレオナルドも「スフォルツァ騎馬像」でブロンズ工芸技術への挑戦を行っている。


Bernward (933-1022)

 ベルンヴァルトはヒルデスハイムに対し都市計画を適用しようとした。それは大聖堂を中心に聖堂を五重十字架形(十字架の各末端が十字になる形)に配置した極めて象徴性の高い都市であった。


12世紀頃のヒルデスハイム
1: Dom St. Mariae, 2: St. Michael, 3: St. Mauritius, 4: St. Bartholomew, 5: Heiligen Kreuz, 6: St. Godehard

 今日ヒルデスハイムにのこるベルンヴァルトの遺産は自身の設計によるザンクト・ミヒャエル教会、ブロンズ門扉、そして町自体も含められる。薔薇の木もルートヴィヒ敬虔王以来育ち続けている。1945年の空襲で黒焦げになっても翌年奇跡的に芽を吹き、大聖堂のアプシスを覆い続けている。


二度目のミレニアウムを迎えた薔薇

13世紀以前の状態で現存しているのは次の4聖堂である。

ザンクト・ミヒャエル教会
ザンクト・マリアーエ大聖堂
ザンクト・ゴーデハルト教会
ザンクト・マウリティウス教会(回廊部分のみ)

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