皇帝大聖堂
Kaiser Dom

 ザーリア朝からシュタウフェン朝の歴代ドイツ皇帝が威信をかけて、国力を傾けてまで建てさせた大聖堂が「皇帝大聖堂」(または帝国大聖堂)であり、ライン河畔に建つシュパイアー、マインツ、ヴォルムスの三つの大聖堂を指す。


シュパイアー大聖堂
Dom Sankt Stefan und Maria




 ハインリヒII世の逝去でオットー朝は断絶しザリエル家ののコンラートが皇帝となってザーリア朝(ザリエル朝)が始まった。コンラートはただちに大聖堂建設に着手しいったん完成後、ハインリヒW世の時代に大規模な改築が行なわれた。


マインツ大聖堂
Dom Sankt Peter, Mainz

 マインツはローマ以来の都市でラバヌス・マウルス(カロリング時代の聖職者で『マーラーの第8交響曲の第一部はラバヌス・マウルスの『讃歌』から、 Veni Creator Spiritus を歌詞に用いている)司教を務めた。オットー朝時代にいったん完成した後シュパイアー大聖堂に続いて大規模な改築を受けた。戦時中破壊されほとんど戦後の「再建」といってもよい。西側は装飾的で交差塔の上部は後の追加である。六つの塔を持つ多塔型。東側の3塔配置や二重内陣形式はマリア・ラーハに大きな影響を与えた。西側はわかりにくいが三葉型内陣(下の図は左右逆にしてある)。この日はマインツを早朝出発し、一日で三つの「皇帝大聖堂」をまわったので再びマインツに戻った時は惜しくも公開時間が終わり、中に入れなかった(その後再訪したときに内部をみることができた)。西トランセプトに連結して二重礼拝堂最古の作例であるゴーデハルト礼拝堂があるのも特徴。



12世紀の改築後


オットー朝時代のプラン



ヴォルムス大聖堂
Dom Sankt Peter, Worms

 ヴォルムスはマインツとシュパイアーのちょうど中間でずっと昔ブルグントの宮廷があった。ザンクト・ガレン修道院図書館で1200年頃筆写された『ニーベルンゲンの歌』のクライマックスはヴォルムスが舞台で、ジークフリートの亡骸は大聖堂に安置され、ハーゲンはここのライン河畔で財宝を投げ込む(「財宝を投げ込むハーゲン」の銅像が川岸に建っている)。通りの名前も「ハーゲン通り」や「グンター通り」と関わりの深い名前がつけられている。史実ではローマ軍とゲルマンのブルグント族が戦ってブルグント族は敗退し、その記憶が叙事詩に伝えられた。その後ブルグント族は西へ移住し、定住した土地はフランス語読みで「ブルゴーニュ」と呼ばれるようになった。





西内陣内部

西内陣の精緻な装飾

 左は南側(聖堂はほぼ東西から45度ずれているので正確には南西)、幼稚園の庭から。「皇帝大聖堂」の中では最も遅く、薔薇窓や尖頭アーチなどゴシックの影響が表れている。この大聖堂も六つの塔を持つ多塔型である。円形の塔と先端部の形状はヴォルムス独特のモティーフで他の聖堂にもみられる(ザンクト・パウルスやゴシックのリープフラウエン教会など)。東内陣はバルタザール・ノイマン作の大きな祭壇があるためよくわからない。東内陣の下にクリュプタがあり、今までみたクリュプタで最もいたくない場所であった。とても狭い中に九つの棺(ドイツ皇帝の一族)をならべ、しかも電球1個の照明が雰囲気をつくる。「こわい話」をするときにうってつけの部屋である。因みにその次に「居たくない」クリュプタはミュンヘンのテアティーナ教会だった。
 見えない東内陣の代わりに西側内陣は赤みがかった石材で統一され、とても美しい。薔薇窓のステンドグラスは今世紀のもの。聖堂内に過去の写真が展示されていて、19世紀末期には随分荒れ果てていた。第二次大戦中に屋根を焼かれ、露出したヴォールトが興味深い。5つの丸天井がぽこぽこ並んでいるような感じであった。ヴォルムスは他にもロマネスク聖堂がいくつもある。


「皇帝大聖堂」の正面
シュパイアー大聖堂東正面 マインツ大聖堂東正面 ヴォルムス大聖堂西正面

 写真を並べてみるとザーリア朝ロマネスクの変遷をみているようで面白い。雄大であった聖堂がだんだん洗練されていくのがわかる。ヴェストヴェルクがあるのはシュパイアーのみで他の二聖堂は二重内陣型である。


     
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